「移植医はハゲタカ」の中、帰国【平成の医療史30年◆循環器編】
「阪大で移植できるようにせえ、って言いましたやん!」
――「これで、移植できる」大学での心臓移植の体制が整ったのは1991年。一方、90年に発足した脳死臨調での議論は、92年の脳死臨調最終答申まで続くことになる。ところが1991年、福嶌氏は米国に留学。移植を希望して阪大第一外科に入局し、心臓移植を可能にする体制を進めていた中で何が起きたのか。
世界中、法律がなくても移植医療は行われている。そんな中、中山太郎先生(当時の衆議院議員、医師)が「医者だけでやっちゃいかん。法律の規制が必要だ」と、脳死臨調が発足した。「日本に死の定義がないのに、脳死だけ定義をして進めることは問題ないんやろうか」と思っていた。「法律の定義がなくても、医療界で適正な状態を作って進めよう」と。和田心臓移植の反省を踏まえて準備を進め、医学的な問題はクリアしていた。ただ、社会が付いて来られなかったというのはあったんやろうと思う。
そんな中、川島先生から「阪大の教授辞めて、国立循環器病センターの院長になる」と聞いた。「ええーっ!」と驚くしかなかった。「先生、阪大で心臓移植をできるようにせえ、って言いましたやん...
m3.comは、医療従事者のみ利用可能な医療専門サイトです。会員登録は無料です。