研究室の仇名は「楠町の不夜城」◆Vol.15
スペシャル企画
2015年11月15日 (日)
橋本佳子(m3.com編集長)
――神戸大教授、就任当初は、「お金も人もない」状況だったが、1972年春、ようやく体制が整い始め、研究をスタートできた。 この時に、強く感じたことは、「お金よりも人」ということ。助教授1人、講師2人、助手6人のポストのほか、医員を数人採用できる枠があった。助教授の枠は最初は他の教室に流用されていたのですが、それ以外は全て空いていたから、自由に採用できたのです。医員は5人採用、それから千原君のほか、大学院生が4人入ってきれくれたので、いきなり20人近い教室になりました。 教授になった時、私は40歳。教官2~3人が30代前半。残りは20代。本当に若い組織で、皆が「何かをやろう」と熱意にあふれ、あっという間に研究が始まった。次第に徹夜で研究する人が増えてきた。神戸大医学部にあった地名を取り、「楠町の不夜城」という仇名が付いたほどです。とうとう1人、病気になってしまった。幸いすぐに良くなりましたが。個人の借り入れも、いつの間にか、研究費等で返済することができました。 研究自体は、だいたい1年間くらいで軌道に乗りましたが、時間がかかったのが、病棟の整備です。場所はあったのですが、看護師さんがいな...
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