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人生の転機は突然に、女子医大心臓外科の一時代築く◆Vol.1

スペシャル企画 2018年11月1日 (木)  橋本佳子(m3.com編集長)

「日本で最も多くの死亡診断書を書いていたのは、私ではないかと思っている」――。 東京女子医科大学名誉教授の小柳仁氏は、我が国の心臓外科のパイオニアである榊原仟氏が率いる医局に1963年に入局、その後の数年間をこう振り返る。当時は心臓外科の黎明期。その後、手術成績は飛躍的に向上した。小柳氏の現役時代の約40年は、日本の心臓外科手術の発展の歴史とも重なる。 小柳氏の生涯の心臓血管外科執刀数は約7000例に上る。1980年には女子医大循環器外科教授に就任、21年間の教授時代には約300人が入局、15人の教授を輩出した。世界的に引用される心臓外科の術式も考案するなど、臨床、教育、研究の各分野で幅広い実績を残した。心臓移植を日本でも実現するため、1997年の臓器移植法制定にも尽力。80歳を超えた今でもなお、日本臓器移植関連学会協議会の代表世話人を務める。心臓外科発展の歴史をたどりつつ、小柳氏の「私の医歴書」をお届けする。 私が東京女子医科大学の第一外科に入局したのは、1963年。当時主任教授を務めていたのは、日本の心臓外科の草分け的存在である、榊原仟(しげる)先生だ。女子医大に日本心臓血圧研究所...