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レポート 私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授 |
── 生殖補助医療、再生医療や遺伝子治療、AI(人工知能)など、さまざまな新しい医療技術が...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 臓器移植に、人生の多くをかけてきた小柳氏。今後、取り組むべき課題の一つとして、和田移...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 小柳氏は、偏差値が高い高校生が医学部を目指す「医学部人気」の風潮にも疑義を呈する。医...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 医療界では今、医師の働き方改革が議論になっているが、「奴隷の10年」など厳しい修業を...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 三重県伊賀市は人口10万人足らずの地方都市。その伊賀市で2012年7月から3年間、計...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 2001年3月に東京女子医大を定年退職した小柳氏。いまだに臨床も続ける現役だ。スター...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 世界から約40年遅れた日本の脳死下臓器移植について、小柳氏は医療者も反省すべきと主張...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 重症心不全治療に向け、小柳氏が補助人工心臓と並んで医師人生をかけたのが心臓移植だ。心...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── EVAHEARTとDuraHeart、二つの埋込型補助人工心臓を生み出したのが小柳氏...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── いくら術式の改良を進めても課題として残っていたのが、重症心不全の治療。そこで取り組ん...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 手術症例数の多さや、新しい術式の開発以上に、小柳氏がひそかに誇るものがある。一つは病...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 21年間の教授時代も含め、約40年間の心臓外科医としての実績をお聞きした。私自身、執...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 女子医大の卒業生は、全員が女性。男性の外科医師を集めるには、他の大学出身者を呼ばなけ...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1980年5月、再び東京に戻り、44歳で女子医大心研の循環器外科診療科長、教授に就任...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── パリから帰国し、カルパンティエに学んだ弁形成術、「フレンチ・コレクション」に精力的に...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 今野教授の死後、後任の教授ポストはしばらく空席に。小柳氏は1976年2月から1年弱、...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1970年、4年上の今野草二助教授が、37歳の若さで女子医大第一外科の主任教授になっ...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1970年、4年上で、後に榊原教授の後任として、37歳で女子医大第一外科教授になった...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 日本における心臓外科の黎明期、小柳氏は複数の施設で心臓外科の立ち上げに携わった。聖隷...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 榊原外科に入局後10年は、「奴隷」のような生活だったと言うが、いったいどんな日々だっ...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1963年から榊原仟氏が主任教授を務める、女子医大第一外科に所属し、心臓外科医として...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1年のインターン修了後は、母校の新潟大学の脳神経外科教室に行く予定だったが、進路を大...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
──聖路加国際病院のインターンの1年間は、どんな日々だったのだろうか。研修で各科を回ったが、印象的だ...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 「もっといい世界があるのでは」と考え、新潟大学医学部卒業後、インターンから東京に出て...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 1956年4月、小柳氏は新潟大学医学部に入学する。新潟大学は旧制医科大学の一つで名門...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 新潟大学教育学部附属高田小学校、同中学校で学び、地元の新潟県立高田高校に進学した。私...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
── 小柳氏は1936年3月、新潟県上越市(旧高田市)で生まれた。父は新潟県出身。北海道大...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授
「日本で最も多くの死亡診断書を書いていたのは、私ではないかと思っている」――。東京女子医科大学名誉教...
私の医歴書◆小柳仁・東京女子医大名誉教授